薩摩藩で最も著名なお手伝い普請は木曽三川の治水工事である。木曽三川とは木曽・揖斐・長良(きそ・いび・ながら)の3川を指し、下流域では入り組んだ流域のため度々水害が生じていた。そのため幕府は宝暦3(1753)年に薩摩藩に普請を命じる。10~14,5万両と見積もられた莫大な工事費であったが、薩摩藩はこれを請け翌年家老の平田靱負以下約1000人が工事を開始する。工事は疫病や幕府側による町人請負の制限などがあって多難を極めた。宝暦5(1755)年に完成するも、80人あまりの藩士の犠牲と40万両ともいわれる工事費を払うこととなる。平田は完成直後に亡くなるが、自刃したとも伝えられている。
この工事で木曽川流域の洪水被害は減り、近代以降、流域に暮らす人々工事に携わった藩士を「薩摩義士」としては崇めるようになる。流域には治水神社が建てられ、現代では鹿児島県と岐阜県は姉妹県となるなど、治水工事を基とした交流が活発になっている。