薩摩藩の武芸

薩摩藩の武芸

江戸時代、島津家では当主が代わる度に重物目録(じゅうもつもくろく)が作成され、歴代当主たちに受け継がれていきました。その目録には、系図や古文書とともに、島津家の祖である忠久が着用したと伝えられる赤糸威大鎧をはじめ数多くの武具が記され、武家である島津家がいかに武具を重視していたかがうかがえます。

 また、鎌倉時代に流行した犬追物なども「島津家の御家芸」として守り、受け継いでいました。

犬追物

鎌倉時代より続く馬術武芸の1つ。走り回る犬を、馬に乗った射手が矢で射る。矢は犬を殺さないように、「犬射蟇目(いぬいひきめ)」という先が平らな特殊な矢が用いられた。

鎌倉時代にはじまり、南北朝期以降にはさかんに行われた。鎌倉幕府の記録『吾妻鏡(あずまかがみ)』にある、承久4(1222)年の犬追物が最も古い記録で、これに2代島津忠時が参加している。南九州で犬追物がおこなわれたことが確認できるのは南北朝時代で、室町時代半ばには、島津氏領内に川上十郎左衛門家という犬追物の故実家が登場した。

鉄砲伝来後に犬追物は衰退していったが、島津氏は行い続けた。正保4(1647)年、19代島津光久が将軍徳川家光を招いて犬追物を催し、これ以降、島津のお家芸として知られるようになる。後に島津家でも行われなくなったが、25代島津重豪が再興した。29代島津忠義は非常に関心を持ち、2度も明治天皇の前で催した。その時の様子が写真に残っており、中世からの伝統が垣間見られる。明治30(1897)年に忠義が没すると催されなくなった。

尚古集成館所蔵の犬追物関係資料は国指定重要文化財に登録されている。

示現流兵法

薩摩にて編み出された剣術の流儀。「一の太刀を疑わず」と最初の一撃にすべてをかけ、ただ一太刀で敵を倒すことを目指す剣術。 天正15(1587)年頃、東郷重位(ちゅうい)が島津義久に従って上洛した際、京都天寧寺の善吉和尚から天真正自顕流という剣術を学び、帰国した後に昇華させたものといわれる。藩主島津家久から信任を得て師範役となり、文之玄昌が考案した「示現流」の名称を授かった。江戸後期には藩主島津斉興から「御流儀」と称された。なお、幕末には野太刀自顕流(のだちじげんりゅう)が興った。

島津家が育んだ文化

大名である島津家は、地位にふさわしい官職・位、教養を身につけることが必要だと考え、都の貴族や文化人との関係強化、文化向上に尽力しました。重臣たちもこれに倣い、競って教養を身につけようとしたため、各地で文化が花開くことになりました。

島津家が育んだ文化

大名である島津家は、地位にふさわしい官職・位、教養を身につけることが必要だと考え、都の貴族や文化人との関係強化、文化向上に尽力しました。重臣たちもこれに倣い、競って教養を身につけようとしたため、各地で文化が花開くことになりました。