薩摩の学問・教育

薩摩の学問・教育

島津家は、学問・教育、そして出版にも力を入れました。

島津家11代忠昌が招いた学僧・桂庵玄樹(けいあんげんじゅ)は、薩南学派(さつなんがくは)という朱子学の一派を開き、その知識が鹿児島から広く伝わりました。南九州は、海の玄関口として中国大陸とのつながりをもっていたため、島津氏の領国文化は、京都だけではなく中国大陸の文化の影響も受けています。

25代重豪は、植物事典『質問本草』や儒学書である『四書集註』『五経』『孝経』を編纂させ、西欧の科学技術を紹介した『遠西奇器述』、漢方医学書『施治攬要(せじらんよう)』など、多くの書籍を出版させています。曾孫の28代斉彬も「学問ノ要ハ政事ノ根本」「教育ノ行届カザルハ恥ヅベキコト」と考え、藩校である造士館・演武館の学風矯正を図り、遊学を奨励しました。これと並行して、出版事業にも力を注いでいます。

薩南学派

朱子学の一派。薩南学派の祖である桂庵玄樹(けいあんげんじゅ)は明(中国)で儒学を学び、文明10(1478)年に島津忠昌の招きに応じて薩摩国を訪れた。彼は儒学の書の注釈本『大学章句』を刊行し、四書に独自の訓点を施した。彼の教えは領国に広まり、島津忠良なども薩南学派の影響を受ける。また、16世紀から17世紀にかけて活躍した文之玄昌(ぶんしげんしょう)は島津義久・義弘・家久の政治・外交顧問として活躍する。その弟子泊如竹(とまりじょちく)は江戸・琉球で薩南学派を広め、藩外でも知られるようになった。
 現在の訓点の元を生み出した藤原惺窩(せいか)は薩摩国山川で薩南学派の訓点を学び、それを元に訓点を編み出したと言われている。

日新公いろは歌

島津忠良(日新)が詠んだ和歌集。いろは47文字ではじまる47首の和歌に道徳・宗教を織り交ぜたものである。天文15(1546)年に完成、近衛稙家に贈られ、京都の文化人たちから賛辞を得る。忠良は桂庵玄樹の門弟である舜田(しゅんでん)・舜有(しゅんゆう)などから禅や儒学を学んでおり、和歌からも忠良の深い教養とその思想が色濃くみられる。江戸時代になり、いろは歌は郷中教育で武士の子弟教育の根幹として用いられ、藩内に広まった。

造士館

島津重豪が建てた学問所。安永2(1773)年に創設された。敷地面積は3,350坪、講堂の他、公使をまつる宣成殿、外城士のために寄宿舎・学寮も設置されていた。京都から鹿児島藩を訪れた橘南渓(たちばななんけい)は「広大にして美麗なる事天下第一」と賞賛している。近思録崩れの影響で本来の人材育成とかけ離れた教育内容となり、これを嘆いた島津斉彬は「十か条の訓諭」を示し学問の本義を示して造士館の振興を図った。明治2(1869)年に漢学・国学・洋学に分割され、学館となる。さらには本学校と改称し、小学校を卒業した生徒たちを受け入れる学校となった。明治10(1877)年の西南戦争で灰燼に帰したと考えられる。

郷中教育

鹿児島の武士の教育体制。各地域で二才(ニセ)と呼ばれる14~25歳ぐらいの年長者が稚児(チゴ)と呼ばれる6~10歳くらいの年少者によって構成される。稚児はさらに年齢で2つに分かれ、年長の稚児は年少の稚児を指導し、年長の稚児は二才から指導を受けていた。二才は互いに修練しあっていた。公的な援助も場所もなく、統一した教育内容がない中で、各郷がそれぞれ独自に子弟教育を図ったものである。その風習は戦前まで色濃く残っており、現在もあいご会等にその風習が残っている。
朝鮮出兵の際に島津家家臣新納忠元らが「二才咄格式定目(にせばなしかくしきじょうもく)」を作り、その教えが教育の根幹となった。「日新公いろは歌」や「曽我どんの傘焼き」、「妙円寺参り」、「義士伝読み」などは郷中教育によって受け継がれていたものという。イギリスに伝わりボーイスカウトの起源になったとも言われる。

島津家が育んだ文化

大名である島津家は、地位にふさわしい官職・位、教養を身につけることが必要だと考え、都の貴族や文化人との関係強化、文化向上に尽力しました。重臣たちもこれに倣い、競って教養を身につけようとしたため、各地で文化が花開くことになりました。

島津家が育んだ文化

大名である島津家は、地位にふさわしい官職・位、教養を身につけることが必要だと考え、都の貴族や文化人との関係強化、文化向上に尽力しました。重臣たちもこれに倣い、競って教養を身につけようとしたため、各地で文化が花開くことになりました。