貞治2(1363)年~応永18(1411)年

島津家7代当主(奥州家)。父は6代氏久。父氏久とともに九州探題今川了俊(りょうしゅん)と対立し続けた。明徳4(1393)年総州家(そうしゅうけ)の伊久・守久親子が不和の際、両者の関係を収束させたことから伊久から総州家の家督を得る。応永7年、元久は総州家縁の夫人と養子久照(ひさてる、伊久の子)を離縁し、総州家との関係が悪化、両家は戦火を交えるようになった。総州家を圧倒し、のちに大隅国・日向国守護職に加え、総州家の薩摩国守護職も手にする。

海外交易に力を注ぎ、応永17(1410)年、上洛して室町幕府将軍足利義持(よしもち)に謁見した際、京都の人々に多くの唐物を献上し驚かせた。嘉慶元(1387)年、清水城(現鹿児島市稲荷町清水中学校)を築城、城下町鹿児島の基礎を築いた。応永元(1394)年には石屋真梁を招いて福昌寺を建立、島津本家の菩提寺とした。応永18(1411)年、49歳で逝去。