寛政3(1791)年~安政6(1859)年

島津家27代当主。父は斉宣、養母は秋田藩主佐竹義和(よしかず)妹。文化6(1809)年、父斉宣が隠居させられ代わりに藩主となるも、祖父重豪が実権を握っていた。重豪は調所広郷を登用し、財政改革を行わせる。斉興は重豪の死後も調所を重用し続け、500万両の負債を250年賦無利子返済とし、砂糖・薬用植物などの専売制強化、琉球貿易を隠れ蓑にした抜け荷、国産品の改良をおこなって、逆に50万両の貯蓄できるまでに生まれ変わらせた。 1840年代、薩摩藩領の琉球へ欧米諸国の艦船が相次いで来航し、対外的な緊張が高まったため、洋式砲術を採用、青銅砲を鋳造する鋳製方(いせいほう)、理化学薬品の研究・製造をおこなう中村製薬所を創設するなど西洋技術を導入する。調所はより積極的な近代化を主張する嫡子斉彬の考えは藩財政を破綻させるものと危険視し、これに賛同して斉彬への家督譲渡をためらった。折しも斉彬の子どもが相次いで病没、調所や斉興の側室お遊羅が呪詛しているという噂が広まり、斉彬の支持者たちが調所派重臣の暗殺を計画する。これを事前に察知し、彼らを処罰した(高崎崩・お遊羅騒動)。これが老中阿部正弘らの関与を招き、嘉永4(1851)年隠居に追い込まれ、斉彬に家督を譲った。
安政5(1858)年の斉彬の死後、藩主となった孫忠義の後見を務めるが、翌年69歳で逝去。