前回、「八景釜 –源頼朝とのつながり-」と題して、島津家と頼朝公との関係について記したところ「知らなかった」というお声を複数頂きました。
(前回記事)https://www.shuseikan.jp/article/%e5%85%ab%e6%99%af%e9%87%9c/
そこで今回は、比企家との関係について見ていこうと思います。
前回の記事でお示ししたとおり、島津家は今からおよそ800年前、源頼朝から摂関家の荘園・島津荘の下司職(げすしき)・地頭職(じとうしき)を与えられた惟宗忠久が、島津を姓としたことにはじまります。
そもそも、なぜ源頼朝の庶子とも伝わっている忠久に、南九州の役職が与えられたのでしょうか。
比企家とのつながり
初代忠久の母親については、比企尼(ひきのあま)の娘である丹後局と伝わっています。
比企家といえば、現在放送中のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、源頼朝を支え、また周囲の有力御家人に対して影響力を発揮する一族として描かれています。源頼朝の乳母(めのと)も比企尼であり、彼が流人生活をしていた間も援助を続け、固い信頼関係のある間柄です。当時の乳母は、養君(ようくん)に対してただお乳を与えるだけではなく、儀式類の準備や後見的役割を担うという側面も持っており、親子関係に準ずる親愛関係を築くことが多かったようです。
鎌倉時代設立当初、頼朝は縁故関係を重要視して、人材を登用しています。摂関家の家司(けいし/私的役人)で、比企家とつながりのある忠久も、そういった意味で重用されたのでしょう。
ちなみに、吉見系図を参照すると、下記の図のようになります。
なぜ、忠久が南九州の下司職・地頭職に
忠久が南九州の守護を任された頃、九州の別地域では
・筑前、豊前、肥前=武藤氏(のちの少弐氏)
・筑後、豊後=大友氏(中原氏)
が、同様に複数国の守護を担当しています。両名とも、忠久と同じくもともとは京都出身の御家人です。
また、忠久が任命されるまで、薩摩・大隅・日向は惟宗氏の一族が国守となっていたことから、「惟宗忠久」が南九州三か国の下司職・地頭職に任命されることは、非常に自然な流れだったのではないかと考えられます。
とはいえ、忠久は基本的に鎌倉と京都で職務にあたっていました。『吾妻鏡』においては、忠久が京都で天変の祈祷の奉行をしたり、将軍の病気平癒のため鬼気祭を沙汰した記述がありますし、『新後撰和歌集』には現在の祇園祭にあたる加茂祭の祭主を務めたりした記録が出てきます。
鎌倉御家人でありながら、京都の清浄を守るため、陰陽道関係の職務に当たっていたようですね。
比企の乱の後
母が比企家の娘であったため、忠久も「比企の乱」に縁坐し、一時は全ての役職をはく奪されてしまいました。
しかし、すぐに薩摩国守護職、島津荘薩摩方地頭職がもどされ、のちに甲斐国波加利新荘地頭職や越前国守護職に任命されています。今ではあまりイメージがわきませんが、南九州以外の土地にも、島津家は縁があるということですね。
●主な参考文献
・『惟宗忠久をめぐって-成立期島津氏の性格-』野口実
・『乳母、乳父考』西村汎子
・『鎌倉幕府の御家人制と南九州』五味克夫
【投稿】 2022年6月17日