今回は、島津家の重物(じゅうもつ/家宝)として、歴代当主に大切に受け継がれてきた「八景釜」をご紹介します。
この釜は「源頼朝公より拝領したもの」と伝わっています。南九州の雄として有名な島津家と、源頼朝公(以下、頼朝)とはどのようなつながりがあるのでしょうか。
島津家初代・忠久の誕生にまつわる説話
島津家は、今からおよそ800年前、源頼朝から島津荘の下司職・地頭職を与えられた惟宗忠久(これむねただひさ)が、島津を姓としたことにはじまります。のちに忠久は、薩摩・大隅・日向三ヶ国の守護職も与えられ、島津家が南九州を治める基礎を築いた人物です。
「島津氏正統系図」をはじめ、島津家のさまざまな史料に、島津家初代・忠久(ただひさ)の誕生について次のような話が記されています。
“ 治承3年(1179)、比企能員(ひきよしかず)の妹である丹後局(たんごのつぼね)が、源頼朝の子供を身ごもりました。丹後局は、頼朝の正室・北条政子の嫉妬を恐れて、鎌倉から逃れます。
大晦日に摂津国(現大阪府)の住吉大社にたどり着き、大社の境内で、大雨の降るなか狐火に守られながら忠久を産みました。 ”
この説話は、室町時代前期(15世紀頃)には存在し、大切に受け継がれてきました。
さて、では実際に頼朝と忠久の関係は親子なのかというと…、残念ながら親子ではなさそうです。
京都の公家・中山忠親の日記『山槐記(さんかいき)』の治承3年(1179)の部分に、忠久が成人男性として登場します。治承3年(1179)というと、説話における誕生年に当たるため、忠久を成人男性とするには、生まれた年をおおよそ20年ほど遡らせる必要があります。治承3年に頼朝は32歳ですので、そこから20年ほど遡らせると、頼朝は12歳前後の少年になってしまいます。頼朝を、忠久の父とするのは、少々無理がありそうですね。
母親は比企掃部允と比企尼(頼朝乳母)の娘・丹後局で、彼女が惟宗広言(これむねひろこと/貴族)に嫁いだため、島津家初代は「惟宗」を名乗った、と系図にあります。専門家の間では、忠久の父親は、この広言あるいは惟宗忠康ではないかと考えられています。
とはいえ、頼朝の庶子であるという説話を、島津家や家臣をはじめ、多くの人々が尊重し、現在まで伝わっているという点も、また欠いてはならない歴史です。
大切にされた説話
島津家では忠久誕生説話にもとづき、「狐はお稲荷様の使い」ということで鹿児島に稲荷神社を建てています。島津家当主数人の兜に、狐の前立てが見られるのも、神の使いとしての加護を得ようと考えてのことです。
また、雨も「今からめでたいことが起こる前兆」とされ、「島津雨」という言葉が誕生しました。島津家には「時雨軍旗」という、大きな布に雨の絵を描いた軍旗が残っていますし、現代においても吉事の日に雨天だと「本日は、島津雨おめでとうございます」という言葉で祝うことがあります。
初代誕生から現代まで、狐と雨は島津家にとって、大切なものとされてきました。
八景釜
頼朝と忠久は親子の関係ではなかったようですが、外海に通じる広大な荘園・島津荘の下司職・地頭職をまかせたことからも、重く用いられていたことが分かります。
頼朝から拝領したと伝わっている八景釜は、上から見ると美しい八角形の釜です。
側面は、八面それぞれに美しい景色が刻まれています。
忠久は、母親が比企能員の妹だったため「比企の乱」で、一時は全ての職をはく奪されてしまいましたが、すぐに薩摩国守護職・島津荘地頭職に戻され、のちに甲斐国波加利新地頭職や越前国守護職などにも任命されました。
この釜は、島津家歴代当主とともに800年の時を共に歩んでいます。
展示の際は、ながい時の流れを感じながらご覧ください。
※八景釜の展示の有無に関しては、当館HPをご覧ください。
【投稿】 2022年5月30日