東は太平洋、西は東シナ海、そして南は南西諸島と3方を海に囲まれた地域が南九州である。この地は日本の政治の舞台となった京都・江戸などよりも、大陸までの航路の便がはるかによく、大陸から台湾・沖縄・奄美を経て南九州へと通じる「海の道」が東アジア諸国と南九州とを常に結び続けていた。
古代以来、朝廷・幕府の人々が珍重した唐物(貿易品)の入手地としてクローズアップされていた。中世には倭寇が自由に東シナ海・南西諸島を通交していたが、彼らの拠点地は壱岐・対馬・五島とともに南九州・琉球が挙げられる。倭寇とは中国の私的貿易を禁止した“海禁政策”を破って自由な貿易を行っていた集団であり、国家からの取り締まりに対抗して武装していた。また、構成員は日本人だけでなく中国や朝鮮半島などの人々も多く、国籍を越えた集団であったことが知られている。彼らの活動は南九州を通じて日本に火縄銃やキリスト教をはじめ数々のアジア・ヨーロッパの文物を伝えることとなった。ヨーロッパ人からしても、鹿児島は“cangoxina”として日本の玄関口として認識されていた。
江戸時代、幕府が「鎖国」体制を敷くが、薩摩藩は琉球王国を属国とし、琉球を通じて独自に貿易を行っていた。南九州には大陸の文化・技術の影響の色濃いものが多く残されているが、これは薩摩では海外との交流が続いていたことを証明するものである。このことから薩摩に「鎖国」はなかったということもできよう。
海からの脅威を早くから危惧し、対策を講じたのも薩摩藩であった。幕末、斉彬の主導で近代化事業が進められる。その成功の背景の1つとして、漢籍や蘭学書から入手したヨーロッパの知識に在来技術を織り交ぜた点が挙げられるが、藩の在来技術の多くは大陸からの技術が色濃いものであった。薩摩藩は西欧列強と時に対立し、時に友好をはかることを通じて、日本が海外と対等に交流するためには従来の封建体制から新たな国家に生まれ変わることが重要であると考えた。こうして海洋国家薩摩は、海から得た知識・技術をもって激動の維新を牽引し、近代日本を形成したのである。
中国(明・清)の私貿易禁止政策のもと、東アジアの人々は自由に交易することができず、一般の人々は密貿易で交流していた。彼らは倭寇と呼ばれ、武装して環シナ海の村々で交易、場合によっては襲撃して物品を入手している。日本・中国・朝鮮半島の人々によって構成され、国籍を超えて自由に海を渡っていた。倭寇の活動は中断を挟みながらも13~16世紀にわたってみられ、その拠点は九州北部の対馬・五島や薩摩・大隅・種子島などにも存在していた。彼らは取締をかいくぐって日本に大量の海外貿易品をもたらし、日本の政治・文化に大きな影響を与えた。
1543年(前年という説もある)、ポルトガル人が乗った中国船ジャンクが遭難し、種子島に到着した。当時、倭寇の王と呼ばれた王直(五峯)の船に乗ってきた彼らから種子島氏当主種子島時堯は鉄砲を譲られ、後に独自で火縄銃の開発を開始、翌年再度来航したポルトガル人の協力もあって国産の火縄銃を生産することができた。この種子島から畿内の堺・根来へと伝わり、将軍にも献上された。 島津氏は天文24(1553)年の岩剣城の戦いで初めて鉄砲を使用したという(異説あり)。火縄銃は「種子島」と称されて全国に広まり、16世紀の合戦の様相を変化させるものとなった。
ザビエル以外にも多くのヨーロッパ人が南九州を訪れている。ジョルジ・アルバレスは薩摩国山川に約半年滞在し、日本の様子をザビエルに伝えている。この報告をもとにザビエルは来日を決意したという。ザビエル来鹿後にはルイス・アルメイダが3回訪れてキリスト教布教に努めている。 江戸時代の禁教下においても、宝永5(1704)年に司祭シドッチがキリスト教布教のために屋久島に和服・帯刀の日本人姿で上陸する。彼はすぐに捕らえられるが、幕府の新井白石と親しく交わり、ヨーロッパの情勢を伝えた。
平成8(1996)年からの調査で、万之瀬川下流の持躰松(もったいまつ、南さつま市)において古代末から中世前期の港湾遺跡が発掘された。宋(中国)で製造された大量の陶磁器が見つかり、薩摩半島西部と宋との間に交易が行われていた可能性を示すこととなった。この後、付近の芝原や小薗でも大量に見つかり、万之瀬川下流域が港湾拠点、もしくは中継地として活用されていたことを証明することとなった。源平争乱の時期に当地を治めていた阿多忠景(ただかげ)は源頼朝の叔父為朝(ためとも)の舅となり、南九州で強大な勢力を築き上げた。忠景没落後も、薩南平氏と呼ばれる一族が万之瀬川下流域を基盤としており、これらの時期に活用されていた場所が遺跡群となった。