薩摩の礼式・作法
薩摩の礼式・作法
源頼朝が守護職に任命した大名で、明治維新まで領国を維持したのは島津氏だけです。このため島津家とその家臣たちは「鎌倉武士・文化を守り伝えていくのは自分たちだ」と考え、様々な故実(こじつ)を「鎌倉流」と名付けて守り続けました。
江戸時代以降、島津家当主が京都・江戸に滞在する機会が増え、朝廷・公家・他の大名を饗応(きょうおう)する際に必要となり、足利家や徳川家が採用していた小笠原流・大草流なども、採り入れられるようになりました。
上井覚兼日記
16世紀の島津家家臣、上井覚兼(さとかね)が記した日記。天正2(1574)年から天正4(1576)年にかけてと(一部欠)、天正10(1582)年から天正14(1586)年にかけて現存している。筆者が奏者・老中を務めていた時期に当たり、島津家内部の政治・訴訟・合戦の状況が事細かに書かれている。また、覚兼が教養人であったが故に、日々の信仰や連歌・和歌・茶道・狂言など武将の文化の嗜みについても記されており、武士の日常を知る上で研究上欠かすことのできない日記である。現在、東京大学史料編纂所にあり、重要文化財に指定されている。
茶道
室町時代に大成した芸道。15世紀後半に村田珠光がはじめ、16世紀に武野紹鴎・千利休らによって大成された侘び茶は、織田信長・豊臣秀吉の時代に全盛期を迎えた。権力者たちはしばしば茶会を催し、重要な事柄が話し合われることも多かったため、茶道は武将たちに欠かせない教養となった。南九州でも、16世紀後半に島津義久・義弘や老中の伊集院忠棟・上井覚兼をはじめ様々な階層の人物が茶の湯を楽しんでいたことが『上井兼覚日記』に見られる。豊臣政権降伏後、島津義弘は千利休に茶道を学んだとされている。義弘は秀吉から平野肩衝という茶器を授かった。また、朝鮮出兵の際に朝鮮人陶工を薩摩へ連れ帰り、茶器を作らせた。これが薩摩焼の起源であり、当時茶道の第一人者であった古田織部をはじめ茶人や諸大名たちの注目を集めることとなった。
江戸時代も歴代当主たちは茶道を嗜んでいる。特に吉貴と斉宣は強い関心を示した。
料理故実
9世紀に光孝天皇が藤原山蔭(四条中納言)に料理故実を定めさせ、四条流料理故実が誕生したという。室町時代には足利将軍家に仕えた四条流の大草公次が大草流を創始した。
島津家では、鎌倉時代から受け継がれてきたという独自の鎌倉流が伝えられていたが、豊臣秀吉に従属後の諸大名たちとの交流の際に鎌倉流が不評であったため、大草流に通じた石原佐渡を招いた。佐渡の子孫は島津家に仕え、領国内に大草流が普及する。鎌倉流と大草・四条流の料理故実書100点余りが尚古集成館にあり、鹿児島県の有形文化財に指定されている。
島津家が育んだ文化
大名である島津家は、地位にふさわしい官職・位、教養を身につけることが必要だと考え、都の貴族や文化人との関係強化、文化向上に尽力しました。重臣たちもこれに倣い、競って教養を身につけようとしたため、各地で文化が花開くことになりました。
島津家が育んだ文化
大名である島津家は、地位にふさわしい官職・位、教養を身につけることが必要だと考え、都の貴族や文化人との関係強化、文化向上に尽力しました。重臣たちもこれに倣い、競って教養を身につけようとしたため、各地で文化が花開くことになりました。