薩摩の寺社・信仰

薩摩の寺社・信仰

歴代当主たちは、神仏に対して強い崇敬の念を抱いていました。特に鎌倉時代から南北朝時代は時宗を信仰し、室町時代に曹洞宗に改め、玉龍山福昌寺を菩提寺としました。そして明治維新期に仏教から神道に改め、歴代当主の御霊を鶴嶺神社に祀るようになりました。

また、密教系の寺院に日付や方角の吉凶を占わせ、敵を呪詛させたりしていました。戦争をするかしないかなどの重要な案件を、鹿児島神宮などの御神籤を引いて決めたりしていました。

福昌寺

鹿児島市池之上町に寺跡が残る曹洞宗(そうとうしゅう)の寺院。応永元(1394)年に島津元久によって創建されたもので、開山は石屋真梁(せきおくしんりょう)。能登国(現、石川県)にあった大本山総持寺の末寺であり、島津本家の菩提寺。島津家の保護を受け、江戸時代には藩内で最大の寺院となり、最盛期には1500名以上の僧侶が修行していたという。藩内の曹洞宗寺院のほぼすべてが末寺であり、藩外にも西日本を中心に散在する。周防国(現、山口県)にある国宝・五重塔で有名な瑠璃光寺(るりこうじ)も末寺であった。明治2(1869)年に廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動によって廃寺となる。
 6代島津師久(もろひさ)から28代斉彬までの歴代当主とその夫人の墓をはじめ、開山石屋真梁やザビエルと交流のあった忍室文勝(にんしつぶんしょう)ら歴代住持の墓などが残されている。寺域の多くは玉龍中学校・高校となっている。

感応寺

出水市野田町にある臨済宗(りんざいしゅう)の寺院、鎮国山感応寺。建久5(1194)年、臨済宗の栄西を開山として島津忠久の家臣である本多貞親(さだちか)が創建したという伝承を持つ。一時衰退したが、14世紀に3代島津忠宗によって再興されたという。以降、島津総州家や本田氏、薩州家島津氏から庇護を受ける。廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって廃寺となるが、のちに再興される。初代島津忠久から5代貞久までの墓と廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)から逃れた寺物、「感応寺文書」が残る。

花尾神社

鹿児島市花尾町にある神社。建保6(1218)年に島津忠久が父源頼朝と母丹後局を祀ったとする由緒を持つ。幕末の説では高倉王(以仁王[もちひとおう]、後白河天皇皇子)を祀っている、とされた。これは以仁王こそが忠久の父である、という説が幕末に大勢を占めていたからである。境内周辺には「丹後局の墓」や「丹後局の腰掛石」などが残されている。山岳信仰の対象であった場所とされているが、13世紀後半から島津氏との関係が密接になり、歴代当主が社殿の修造を行っている。江戸時代に入ると、頼朝・丹後局を祀る場として藩内に浸透し、琉球使節も数度参詣している。

住吉大社

摂津国(現、大阪府)一宮。神功皇后(じんぐうこうごう)などを祀り、海上交通の守り神として尊崇をあつめた。住吉は日本最古の港とも言われる。14世紀の後村上天皇をはじめ歴代天皇との関わりが深い。丹後局が源頼朝の子である島津忠久を産んだ地であるとされており、境内には忠久誕生石が存在する。しかし、この伝説は偽りであるという説もある。住吉大社が出生の伝承地に選ばれた理由は定かではないが、源頼朝の先祖である摂津源氏の尊崇を受けた神社であり、頼朝も上洛時に住吉で流鏑馬(やぶさめ)を催しているなど、源氏と深いつながりのある神社であったためであろう。

諏訪神社

鹿児島市清水町の南方神社(みなみかたじんじゃ)の古称。諏訪は「諏方」とも書く。鹿児島五社の第一とされ尊崇を受けた。島津忠久が奥州藤原氏の征伐の際、信州諏訪社に祈願し、信濃国(現、長野)太田荘を治めたことが端緒とされている。島津貞久が諏訪神を薩摩国山門院(やまとのいん)に勧進し、のちに島津氏久が東福寺城を居城とした際に鹿児島に移したという。江戸時代には諏訪神社の祭礼が鹿児島で最も大きな祭礼と言われ、鹿児島城下の町人や近辺の村落が動員されている。祭日には太鼓踊りなどが奉納されていた。

鹿児島神宮

建保4(967)年の『延喜式』に記載されている「鹿児島神社」がその前身とされ、その後八幡神が合祀され、11世紀頃に大隅正八幡宮となったという。大隅国一宮として大隅国内で別格の地位にあるのみならず、大隅・薩摩・日向3ヶ国を中心に信仰される。元寇の際には元軍退散のための祈祷を行い、幕府から恩賞を得た。南北朝期になると島津氏と対立するが、武力制圧と寄進・造営のアメとムチの政策で支配下に入れることに成功する。この時期には対外交易を行っていたようで、多数の輸入品が出土されている。16世紀以降は島津氏の信仰対象となり、島津貴久が寄進したとされる鎧などが残されている。社殿は島津重豪によって建造されたもので、本殿天井には彩色豊かな植物絵が描かれている。明治4(1671)年に鹿児島神社と改称し、その3年後に鹿児島神宮と改める。神社で仕えていた一族の文書が多数残っている。

鶴嶺神社

鹿児島市吉野町磯にある神社。明治2(1869)年に藩内で廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が一段と激しさを増し、島津本家の菩提寺であった福昌寺が廃寺となると、島津本家は新たに先祖の霊を祀る場が必要となった。そこで、同年に鹿児島市坂元町山下鶴嶺の地(現照国神社隣)に島津氏歴代当主とその家族・殉死者などを祀る神社が建立された。大正6(1917)年に島津忠重によって現在の地に移転される。神社の宝物に、島津忠久が着用したとされる赤糸威大鎧(重宝文化財)や、忠重が奉納した太刀銘備前国住雲次(同)、歴代当主の像がある。また、島津義久の娘、亀寿を祀る神社としても有名。

照國神社

鹿児島市照国町にある神社。島津斉彬は安政5(1858)年に急死するが、5年後の文久3(1863)年に朝廷より照國大明神の神号が贈られる。翌元治元(1864)年に南泉院(なんせんいん)跡に社殿を建立し、照國神社と号した。明治34(1901)年に正一位を与えられる。昭和20(1945)年に戦災で消失するも、昭和33(1958)年に復興された。7月11日には国旗祭が催される。初詣・六月灯は県内最大規模になる。

島津斉彬文書のほか、鹿児島県内唯一の国宝である太刀銘国宗が納められている。これは昭和2(1927)年に島津忠重が照國神社に奉納したものである。

稲荷信仰

島津家の稲荷信仰は島津忠久誕生伝説が源流である。丹後局は住吉大社で雨の降る夜に狐火に照らされてのちの島津忠久を産んだと言われている。また、16世紀の合戦にも狐の話が出てくる。天文23(1554)年の岩剣城の戦いの際には狐火が灯ったと言われ、文禄・慶長の役では紅白3匹の狐が明軍に突撃したと伝えられている。このようなことから島津氏と狐は関係が深く、稲荷信仰が領国に根付いていた。

六月灯

鹿児島の寺社で旧暦6月に催される祭り。
江戸時代、島津光久の時期に鹿児島の上山寺観音に灯篭を奉納したことからはじまったという説がある。また、人馬の病気や田畑の害虫が発生しやすい6月に、悪疫を火で追い払う民俗行事がその源流とも言われる。地域によって異なるが、始祖島津忠久を祀る場合や「中興の祖」島津忠良を祀る場合、島津貴久を祀る場合がある。境内が灯篭で飾りつけられるこの祭りは現在でも続いており、鹿児島の夏の風物詩となっている。

五社参り

元日、島津家が鹿児島城下に鎮座する5つの神社を参拝する行事。鹿児島五社は諏訪神社・八坂神社・稲荷神社・春日神社・若宮神社のこと。諏訪神社は現在南方神社と呼ばれる。八坂神社は祇園・戸柱とも呼ばれ、その祭りが「おぎおんさぁ」。16世紀の『上井覚兼日記』の中で島津義久が五社を参詣している様子が描かれている。江戸時代を通じてこの五社は島津氏の尊崇を受けていた。

心岳寺参り

鹿児島市吉野町にあった心岳寺(現平松神社)への参詣。心岳寺は天正20(1592)年に竜ヶ水で自刃した島津歳久(島津義久・義弘の弟、日置島津家祖)とその家臣を祀った寺院で、宗派は曹洞宗。伝承によると墓石を移動してもすぐに元の場所へ戻ったという。彼への畏敬の念から歳久の命日である7月18日に多くの人々が武者姿で参詣したという。戦後衰退し、今では見られなくなっている。

妙円寺参り

日置市伊集院町の妙円寺(現徳重神社)へ参詣する行事。慶長5(1600)年に島津義弘が関ヶ原の戦いで敵中突破を敢行し、領国に帰還したことを祝う。鹿児島の郷中教育によって催し続けられた行事である。現在でも妙円寺の跡地である徳重神社に人々が武者姿で参詣に訪れる。

日新寺参り

加世田参りとも。島津忠良を祀った日新寺(現竹田神社)へ参詣する行事。忠良は加世田で晩年を過ごし、死後に加世田保泉寺が日新寺と名を改めた。毎年6月末には士踊が催され、鹿児島から武者姿で日新寺まで徒歩で参詣する行事があった。戦後衰退し、武者姿での参詣は現在では見られないものの、士踊は奉納され続けている。

島津家が育んだ文化

大名である島津家は、地位にふさわしい官職・位、教養を身につけることが必要だと考え、都の貴族や文化人との関係強化、文化向上に尽力しました。重臣たちもこれに倣い、競って教養を身につけようとしたため、各地で文化が花開くことになりました。

島津家が育んだ文化

大名である島津家は、地位にふさわしい官職・位、教養を身につけることが必要だと考え、都の貴族や文化人との関係強化、文化向上に尽力しました。重臣たちもこれに倣い、競って教養を身につけようとしたため、各地で文化が花開くことになりました。