前回の「華族のアフタヌーンティー」の記事を読んだスタッフから、「仙巌園のある磯地区に工場群を築いた島津斉彬公は、甘いものが好きだったの?」という質問を受けました。
その通り、島津家28代斉彬(以下斉彬)は、甘いものがお好きだったようです。尚古集成館が所蔵する「嘉永四年亥年斉彬公御家督初而(て)御初入部其他留」という、斉彬が藩主になって初めての鹿児島入りの際の献立帳(食べたものの記録)には、とてもたくさんの甘味の名前が出てきます。
一部をご紹介します。
《嘉永4(1851)年5月8日》
紅求肥、水栗、川茸、煉やうかん、鶴寿かう、紅柳巻、福梅
・御夜食
羊羹、にしき糖、結松かせ、最中月、紅きくりん
《同5月18日》
青梅糖、牡丹かう、松かせ、紅葉りん、巻せん米
・同日浄光明寺ニ而差上ル
源平糖、長生かう、花ほうろ、最中月、みとり
・同日福昌寺ニ而差上ル
金糸とう、鶴寿かう、沖の石、松かせ、吹よせ、金玉糖、包橘
・同日恵燈院進上
翁糖、宇治橋かう、紅千代結、草落かん、まつかせ、いりこ餅、葛まん頭紅あん入
5月8日から12月29日までの公式行事、いわゆる「ハレの日」の献立のうち、2日分のお菓子の記述を抽出してみました。これだけでも十分、登場するお菓子の種類も、数も、とても多いことが分かります。他の日には、今の鹿児島でもおなじみの、かるかんや杢目(もくめ)かん(写真/「きもっかん」と呼ぶ)、高麗(これ)餅(もち)などの名前を見ることができます。
紅きくりんや紅葉りんといった「りん」とつくお菓子がみられますが、日本料理で「りんかけ(輪掛け)」というと、お砂糖や飴などを衣のように掛けることを指すため、紅きくりんは「菊花の形の、紅色の砂糖がけ菓子」だと思われます。すてきですね。残念ながら、青梅糖や源平糖など、今では姿や味が分からないものもありますが、想像する楽しみがあります。
斉彬の考え方に大きな影響を与えた、曾祖父の島津家25代重豪(以下重豪)に関する献立も興味深いものです。
安永2(1773)年12月23日および翌3年1月18日(推定)、重豪は琉球からの使者たちと会合をするため、琉球御仮屋(現在の長田中附近)へ行っています。そのときの献立を見てみると、つばめの巣やフカヒレ、点心(てんしん)などが登場し、中国料理の影響を強く受けていることが分かります。
この献立から甘いものを探してみると、「鶏卵こう」「砂糖漬冬瓜」「花生紅」といった名前がありました。鶏卵こうは「チールンコー」と呼び、現在でも沖縄で愛されている、卵をたっぷりと使った蒸菓子です。
冬瓜の砂糖漬けは、琉球の饗応(きょうおう)料理として重用されたもので「冬瓜漬」の名前でも親しまれています。花生紅は、くわしくは分かりませんが、花生がピーナッツのことなので、赤く色づけされていたか、辛みがつけられていたのかもしれません。
琉球とのつながりならば、斉彬の「御初入部」の献立に「花ぼろ」「華丸ほろ」というお菓子も出てきますが、これも琉球菓子「花ぼうる」ではないかと思われます。
卵や小麦粉、砂糖を混ぜて、細い紐状の生地作り、花や王冠(おうかん)を成形した細工菓子です。現在は沖縄の一部の店舗でしか見ることができませんが、琉球王朝の菓子として記録に残っています。
今ではなかなか口にできないお菓子が多いですが、お殿様も甘いものを楽しんでいたのだと思うと、親近感がわきますね。
※1、写真のお菓子はすべて、現在のものです
※2、「嘉永四年亥年斉彬公御家督初而(て)御初入部其他留」については、尚古集成館研究紀要第10号に掲載
【更新】2020年8月5日