天正4(1576)年~寛永15(1638)年

島津家18代当主。父は義弘。義久の娘亀寿と結婚し家督を相続する。その後、義弘と共に朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に従軍。朝鮮から帰国後、親豊臣派の老中伊集院幸侃(こうかん)を伏見にて殺害、幸侃の子忠真(ただざね)が反乱を起こすと、鎮圧にあたる。
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで父義弘が敵中突破を敢行して帰国すると、義父義久とともに徳川方との交渉に当たり、巧みな交渉で2年後に家康と和睦、慶長11(1606)年、家康から「家」の字を賜り、忠恒から家久に改名した。また、慶長6(1601)年に鹿児島城を築城。慶長14(1609)年に樺山久高(ひさたか)を大将として琉球へ侵攻。降伏を受け入れ、琉球国王の尚寧王(しょうねいおう)を伴い家康・秀忠に謁見する。慶長20(1615)年に大坂の陣が起こった際、鹿児島から軍勢を率いて大坂に向かうが、その途中で大坂城は落城した。参戦しなかったため豊臣方と通じていたのではないかと疑われる。こうしたこともあり、桜田藩邸の御成(おなり)御殿で秀忠・家光を歓待するなど、幕府との関係改善に尽力した。寛永11(1634)年、将軍徳川家光より薩摩国・大隅国・日向国諸県(もろかた)郡の2国1郡と琉球国、72万8700石余が認められる。寛永15(1638)年、63歳で逝去。