貞和3(1347)年~応永14(1407)年
島津家6代当主である師久の長男。総州家2代。元久とともに島津家7代当主と数えられることもある。父の跡を継ぎ薩摩国守護職となり、叔父氏久とともに南九州を治める。北朝方の武将であったが、永和元(天授5、1375)年、肥後国水島(現熊本県菊池市七城町)において九州探題今川了俊(りょうしゅん)が少弐冬資(しょうにふゆすけ)を暗殺すると、冬資を了俊のもとに誘った氏久とともにこれに反発して南朝方となる。このため幕府によって薩摩国守護職が没収され、了俊らと戦うことになった。 明徳4(1393)年、子の守久と不和の際、元久が両者の関係を収束させたことから元久へ総州家の家督と相伝物を与えたという。のちに元久が総州家縁の夫人と養子久照(伊久の子)を離縁したことを機に奥州家の元久と関係悪化、渋谷一族や肥後国(現熊本県)の相良氏と手を組んで元久と戦った。応永14(1407)、死去。享年61歳。