文化6(1809)年~安政5(1858)年
島津家28代当主。父は斉興、母は鳥取藩主池田斉邦(なりくに)妹。曾祖父重豪の影響で西洋の文化と技術にふれ世界情勢に精通、蘭学者と親しく交わる。また、老中阿部正弘(まさひろ)や水戸藩主徳川斉昭(なりあき)らとも交流し、その聡明さから「英明近世の第一人者」と称される。イギリス・フランスが琉球に来航し、通商などを求めたため、弘化3(1846)年、幕府の命で藩に下向した。この頃から、蘭学趣味が財政を破綻に導くと危惧する調所広郷との対立が表面化、斉興も調所に賛同したため跡継ぎのまま据え置かれた。これに関して斉彬就任を強く望む家来が暴走、彼らは処罰を受けることとなった(高崎崩・お遊羅騒動)。その後、幕府の斡旋により斉興は隠居、嘉永4(1851)年、斉彬が藩主となる。
日本が植民地化されるのではないかと危惧した斉彬は、日本が一つにまとまり、産業を興し豊かな国に生まれ変わらせ(富国)、国を守るため軍備を強化すべき(強兵)だと考えていた。藩主就任後はこの考えを実現させるため、磯に「集成館」という工場群を築き、ここを中核として多岐にわたる事業(集成館事業)を推進した。軍事品を作るのみならず、薩摩切子・薩摩焼の制作やガス灯・写真・活版印刷の研究にも力を入れた彼の政策は「富国強兵」の先駆けであった。また、外交問題に悩む阿部を補佐して活躍、将軍徳川家定の後継者問題でも阿部らとともに一橋慶喜を推した。この間、将軍家側から家定との縁談が持ちかけられ、今和泉家の娘於一(おかつ、天璋院篤姫)を養女に迎えて嫁がせた。 将軍後継者問題は、紀州藩主徳川慶福(よしとみ、家茂)を推す井伊直弼(なおすけ)が大老に就任、斉彬ら一橋派の敗北が決定的となった。その最中、斉彬は鹿児島の天保山で演習指揮中に発病し、50歳で逝去。死後、照國大明神の称号を授かる。