安永2(1773)年~天保12(1841)年

島津家26代当主。父は重豪、養母は一橋家の徳川宗尹(むねただ)女。翌年の父の隠居に伴い家督を相続。「亀鶴問答集(かめつるもんどうしゅう)」を作り質素倹約を旨とする訓辞を家臣らに提示する。災害や学問奨励による出費で莫大な負債を抱えていた藩の財政を立て直すため、樺山主税(かばやまちから)らを家老として登用する。しかし重豪の政策を悉く改めたことから重豪の怒りを買い、文化5(1808)年、改革に関与していた人物は切腹・遠島に処せられ、翌年には自身も隠居することとなる(文化朋党事件・近思録崩[きんしろくくずれ])。天保12(1841)年、江戸の高輪(たかなわ)藩邸において69歳で逝去。