寛正4(1463)年~永正5(1508)年
島津家11代当主。10代当主であった父立久の逝去により12歳で家督継承。当主時期は一族の島津国久らの反乱や領国内の対立が広がり、「国中大乱」と言われた。幕府より琉球へ朝貢船(ちょうこうせん、琉球からの献上物を運んだ船)の催促するよう言われ、文明13(1481)年には琉球船が薩摩に来航している。大隅国の肝付兼久(かねひさ)の討伐のために新納忠武らとともに戦うも失敗、争乱を憂いて永正5(1508)年に清水城で自殺する。死に臨み、西行法師の辞世の句「願はくは花のもとにて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」という和歌を吟じたという。享年46歳。領国内の学問振興に力を注ぎ、文明10(1478)年に桂庵玄樹を招き、朱子学を広め、薩南学派の基礎を築いた。