慶安3(1650)年~宝永元(1704)年
島津家20代当主。父は綱久、母は伊予松山藩主松平定頼(さだより)女。父綱久が寛文13(1673)年に死去したため、家督継承者が得る薩摩守に任命される。貞享4(1687)、祖父光久の隠居に伴い、家督を相続。元禄9(1696)年の大火で鹿児島城が焼亡し、元禄15(1702)年には江戸の高輪(たかなわ)・芝両藩邸が焼失。さらに元禄10(1697)年、将軍徳川綱吉の命により徳川家の菩提寺である東叡山寛永寺(とうえいざんかんえいじ)本堂の建立に携わる。これらの工事により藩の財政は圧迫することになった。櫨(はぜ)・茶の栽培など歓農事業(かんのうじぎょう)によって立て直しを図る。宝永元(1704)年、江戸の芝藩邸において逝去。享年55歳。なお吉良義央の実娘で義央の実子上杉綱憲の養女となった鶴姫と結婚するも、赤穂浪士の討ち入り以前の延宝8(1680)年に離縁している。