天文4(1535)年~元和5(1619)年
島津家17代当主。父は貴久。天文23(1554)年、南九州を転戦、元亀3(1572)年、日向国の木崎原の戦い(現宮崎県えびの市)で宿敵伊東氏に大打撃を与え、大隅・日向統一の道筋をつけた。さらに、天正6(1578)年の耳川の戦いで豊後(現大分県)の大友宗麟(そうりん)の大軍を撃破、肥後国(現熊本県)における合戦でも活躍する。天正15(1587)年の九州の役で豊臣秀吉に降伏した際、兄義久がいったん没収された大隅国を秀吉から与えられた。
朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では義久に代わり朝鮮半島に出陣、泗川(しせん)の戦いなどで活躍する。秀吉に非協力的な義久に代わる人物として豊臣政権から重視され、文禄4(1595)年、秀吉から薩摩・大隅と日向国諸県郡を安堵する書状が義弘に与えられた。慶長5(1600)年、徳川家康が関東へ出陣すると、家康との約束で山城国(現、京都府)伏見城守備につこうとする。しかし、家康の家臣に拒まれたため、直後に起こった関ヶ原の戦いでは西軍につくことになった。西軍の敗北後、義弘は数百の軍勢で敵陣を正面突破、多大な犠牲を払いながらも領国にたどり着く。敗戦直後は桜島に謹慎するも、後に大隅国加治木へ移り、実子家久の領国経営を支えた。元和5(1619)年、加治木において85歳で逝去。