溶(熔)鉱炉は、鉄鉱石・砂鉄を高温で溶かして鉄を生産するための炉。薩摩藩主島津斉彬は、嘉永5(1852)年、反射炉の建設に着手すると、この反射炉に銑鉄(せんてつ)を供給するために熔鉱炉の建設も命じた。反射炉建設で先行していた佐賀藩は、タタラ製鉄で生産した和鉄が利用出来ると考え熔鉱炉は建設しなかったが、斉彬は和鉄が大砲鋳造に不向きなことを知っており、いち早く熔鉱炉建設に踏み切った。反射炉同様、書籍を参考に建設に着手、安政元(1854)年に完成した。溶鉱炉跡は、現在鶴嶺神社境内と推定されている。