子斉宣を隠居させ、孫斉興を藩主に据えた島津重豪は、改革のために調所広郷を抜擢する。文政9(1826)年頃に大坂の経済事情を調査し、財政改革主任を命ぜられ大坂・鹿児島で改革を実行する。天保4(1833)年の重豪の死後も斉興によって改革続行が命ぜられ、天保7(1836)年藩の借金を250年かけて無利子で返済することを大坂・京都で強引に実行する。翌年には江戸でも実行。天保9(1838)年には家老に就任する。人材登用や経費節約を図るとともに、国産商品の改良・黒糖や薬草の専売を実施し、偽金作りや琉球口を通じて密貿易などを盛んにおこなう。
その一方で藩内の新田開発や河川改修がなされ、甲突川には五石橋が築かれる。また、奄美諸島では「黒糖地獄」と呼ばれるほど過酷なサトウキビの買い入れがおこなわれた。